まるで空が泣いているようだとは、一体誰の言葉だったか。
水滴が跳ねる。ぴちゃん。ぴちゃん、ざあざあ。頭上から、ポリエステルの膜を弾く音が、一定のリズムを保って聞こえてくる。傘を伝い足元を濡らし、水溜りが波打っている。「雨は、すきだなあ」無邪気な声がした。極彩色の傘、レインブーツ。お気に入りらしいそれらを身に着けた彼女は、無駄なく真っ直ぐに歩く俺とは対照的に、子犬のようにぱちゃぱちゃと駆け回っては、水溜りを踏んで進む。ぱしゃん、また水溜りに広がる波紋。何故、と俺が問うと、彼女はだって蓮に会えるから、と笑って返した。嘘だ。そんなの、嘘だと言ってやる。どうして?と彼女。俺は毎日この道を通っている。道路沿いの桜が咲き誇り葉になり枯れていきそして再び花咲かせるのを、見ている。その様を知っている。だが彼女に出会うのは、決まって雨の日か、雪の日。晴れていようが風が吹いていようが、それら以外の日に彼女を垣間見たことなどただの一度も無い。そう告げると彼女はえへへと笑って、「だってあたしは、太陽に当たると溶けちゃうのです」とおどけるように言った。その視線は、早くも次の水溜りを捜している。
「蓮は?」
「蓮は、あめ、嫌い?」
その質問に、俺はすぐには答えなかった。雨。雨。雨が降れば湿っぽいし、電車に乗れば肌寒い。纏わりつく湿気のせいで、人の肌すら気持ち悪くなってくる。靴も濡れる。ズボンの裾が汚れる。傘のせいで道路は狭くなるし、荷物も増える。考えてみれば全くいいことなしだ。隣の彼女は相変わらず水溜りを踏んで歩く。楽しそうに。くるくると傘をまわしながら俺の返答を待つ。だがようやくこの口から出てきたのは、答えではなかった。
「おまえは」
「うん?」
「雪も、すきなのだろう」
質問に質問で返すという、恐らく自分がやられたらムッとするであろう行為を、何故か俺は選択した。だが彼女は一瞬きょとんとするも、すぐに笑顔になって頷く。うん、すき。…一番最初に足跡をつけたがりそうだな。おお良くわかったねぇ、大正解!でもつるっと転んで雪まみれ。阿呆か。あ、ひどいなー。
ねえねえ。何だ。今まさにこの地球は肥大しているんだって。何だそれは。だって雨が降ってその水が海に流れ込めば、海面上昇、陸地はまた沈んでしまうじゃない。地球は海面が上昇した分だけ、大きくなるんだよ。雨は循環する、海になっても、蒸発して雲になり、また雨になる。だから別に海面上昇には関係ない。なーんだそっかあ、じゃあ地球が大きくなるのは、北極と南極の氷が溶けて世界が沈んだ時か。…何が言いたいんだおまえは。ううん、わかんない、なんだろう、なんとなくー。
他愛のない会話が灰色の景色に溶けていく。別段深い意味を持たない言葉が飛び交う。まったく、雨が降るとどうしてこうも世界から色が消え失せてしまうのか。くるくる。その間にも、彼女は傘を回し続ける。くるくる、くるくる。色褪せた視界の、唯一の色がまわる。「、」俺は、唯一知っている彼女を彼女として形作るそれを、唇に乗せた。が振り返る。水滴が、跳ねる。極彩色のポリエステル。くるりくるり。雨が降っている。彼女の笑顔。うっすらと白みを帯びた視界。境界線がぼやける。曖昧になる。雨と同化する。融解する。融合する。とけあう。あめになる。焼け付くような焦燥感と共に。「…別に嫌いじゃ、ない」遅すぎる質問への答え。
しかしすでにあめはこたえぬ。
(そういえば彼女は、生前から雨が好きだったのだそうだ)